Mag-log inその夜、私はなかなか眠れなかった。
隣では悠斗が静かな寝息を立てている。 私は薄暗い天井を見上げながら、何度も目を閉じては開いた。 甘い香水の匂い。 あれはもう消えている。 でも、一度気づいてしまった違和感は頭の中に残り続けていた。 ……聞けばよかったのかな。 でも、もし。 もし本当に何かあったら。 そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。 私は布団を握りしめる。 怖かった。 問い詰めて、面倒くさいと思われるのも。 疑ってるみたいになるのも。<中央のテーブルに戻ると、淡い緑がかった小鉢はさっきと同じ場所にあった。 当たり前なのに、少しだけほっとする。 誰かが先に手に取って、そのまま選んでしまったら、それはそれで仕方ない。 ここに並んでいる器は、私のためだけに置かれているわけではない。 でも、まだそこにあることが少し嬉しかった。 私はもう一度、その小鉢を手に取った。 さっきよりも手が慣れている。 重さも、縁の揺れ方も、指に触れるざらりとした感触も、少し分かる。 青みのある深皿とは違う。 でも、どこか似ている。 主張しすぎない色。 光の当たり方で少し表情が変わるところ。 何を入れるかを急かさないところ。 私は小鉢の中を覗き込んだ。 ひじき。 おひたし。 冷奴。 果物。 それから、煮豆もいいかもしれない。 小さなものを少しだけ入れる器。 食卓の真ん中に置くのではなく、端にそっとある器。 でも、その器があるだけで、食卓が少し整って見える。 そういうものが、今の私の生活にあってもいい気がした。 作家さんが、少し離れたところから声をかけてくれた。「気になりますか」「はい。何を入れるか、いろいろ考えていました」「それはもう、かなり気になっていますね」 作家さんが笑う。 私もつられて笑った。「前に買った深皿より小さいので、使うかなって少し迷っていて」「小さい器って、意外と出番がありますよ。少しだけ何かを入れたい時に、便利なんです」「少しだけ」「はい。おひたしでも、果物でも、残ったおかずでも。主役じゃなくても、食卓にあると落ち着くことがあります」 その言葉を聞いて、私は手の中の小鉢を見た。 確かに、この器は食卓の真ん中に置くものではないのかもしれない。 端にそっと置
朝倉さんは、手に持っていた紙の束を近くの棚に置いた。「すみません。少し奥の準備を手伝っていました」「作業中でしたか」「いえ、ほとんど終わったところです」 そう言ってから、朝倉さんは工房の中を軽く見回した。「どうですか、ここ」 その問いに、私はすぐには答えなかった。 白い壁。 木の床。 棚に並ぶ器。 奥の作業場。 土の匂い。 窓から入る光。 書店とは違う。 でも、書店の展示と確かにつながっている。「来てよかったです」 私は言った。「まだ全部見たわけじゃないんですけど、器が展示室にあった時より近く見えます」「近く」「はい。飾られているものというより、ここから誰かの家に行くものなんだなって感じがします」 朝倉さんは少しだけ嬉しそうに頷いた。「それ、作家さんが聞いたら喜びます」「さっきも少し話しました。思った通りにならないものが、意外とよかったりするって」「彼女らしいですね」「料理も少し似てるなと思いました」「茄子の味噌炒めですか?」 私は驚いて朝倉さんを見た。「え」 朝倉さんは一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。「すみません。作家さんから聞きました。展示のあと、藤崎さんが茄子を作った話をしていたと」「そこまで伝わってるんですか」「たぶん、すごく嬉しかったんだと思います。器を使った話も、普通の日に使っている話も」 私は少し恥ずかしくなった。 茄子の味噌炒め。 少し焦げた夕飯。 それが工房まで届いている。 でも、不思議と嫌ではなかった。 笑われた感じではなく、ちゃんと生活の話として受け取ってもらえている気がしたから。「少し焦げました」「それも聞
中央のテーブルには、小さな器がいくつも並んでいた。 白い皿。 灰色がかった浅鉢。 青みのあるカップ。 少しだけ緑を含んだ深皿。 どれも似ているようで、少しずつ違う。 書店の展示で見た時は、器全体の雰囲気を眺めていた。 きれいだな。 生活に入ったら素敵だろうな。 そんなふうに、少し遠くから見ていた気がする。 でも今は違う。 この器には何を入れるだろう。 朝ならヨーグルトかもしれない。 夜なら煮物かもしれない。 この大きさなら、取り皿にも使えそうだ。 この深さなら、汁気のあるものも大丈夫そう。 そんなことを自然に考えている自分に気づいて、私は少し驚いた。 前なら、器を選ぶ時も「使いやすそう」「無難」「割れにくそう」くらいで済ませていた。 誰かに出しておかしくないか。 洗いやすいか。 しまいやすいか。 それはそれで大切だけれど、今の私はそこに少し別の問いを足している。 私は、これを使いたいか。 この器が食卓にあったら、少し嬉しいか。 その問いが、ちゃんと自分の中にある。◇◇◇◇ 私は淡い緑がかった小鉢を手に取った。 重さは軽すぎず、手の中に落ち着く。 縁は少しだけ揺れていて、完全な丸ではない。 青みの深皿とは違う。 でも、並べても喧嘩しなさそうだった。 これに何を入れるだろう。 ひじきの煮物。 おひたし。 冷奴でもいいかもしれない。 それから、少しだけ果物を入れてもよさそうだ。 考えているうちに、前に佐伯さんから言われたことを思い出した。 誰かに会えたから楽しいだけじゃない方がいい。 でも、会えたら嬉しいと思うのも悪くない。 今もそうだ。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。 中から聞こえる声は、穏やかだった。 誰かが笑っている。 器が触れ合う小さな音もする。 怖い場所ではない。 それは分かる。 でも、初めての場所の扉を一人で開ける時、胸はどうしても少し硬くなる。 私は案内の紙をもう一度確認した。 開催時間は合っている。 場所もここで間違いない。 販売会の日。 来てもいい日。 見てもいい日。 そう自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。「失礼します」 小さく声を出して中へ入る。 最初に感じたのは、土の匂いだった。 強くはない。 湿った土と、木の棚と、少しだけお茶の香りが混ざったような匂い。 書店の紙とインクの匂いとは違う。 でも、不思議と落ち着く。 入口の近くに、受付代わりの小さな机があり、そこに作家さんが立っていた。「あ」 私に気づいた作家さんが、ぱっと表情を明るくした。「来てくださったんですね」 覚えていてくれた。 それだけで、緊張が少しほどける。「はい。案内を見て」「ありがとうございます。遠くなかったですか?」「大丈夫でした。少し迷うかと思いましたけど、看板があったので」「よかった。今日はゆっくり見ていってください」「はい」 私は小さく頭を下げた。◇◇◇◇ 工房の中は、思っていたより広くはなかった。 白い壁と木の床。 棚には器が並び、中央のテーブルにも皿や鉢が置かれている。 奥には、作業場らしい場所が少し見えた。 道具。 布をかけられた棚。 粘土を置く台のようなもの。 ここで器が作られているのだと思うと、胸が少し静かに鳴った。 書店の展
電車の窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。 乗り換えは一回。 スマホで何度も確認したから、間違えることはないはずだった。 それでも、駅が近づくたびに少し緊張する。 仕事へ行く電車ではない。 誰かと待ち合わせをしているわけでもない。 ただ、私が行ってみたいと思った場所へ向かっている。 それだけなのに、膝の上のバッグを持つ手に少し力が入った。 窓ガラスに映る自分の顔を見る。 淡いグレーのブラウス。 小さなイヤリング。 少し硬い表情。 でも、嫌そうではない。 不安と楽しみが同じくらい混ざった顔だった。 乗り換えの駅に着く。 私は人の流れに合わせて降り、案内板を見た。 次に乗る路線のホームは、少し離れている。 スマホを見なくても案内は分かる。 でも、念のため画面を開く。 大丈夫。 合っている。 私は改札内の通路を歩いた。 休日の駅には、仕事の日とは違う空気がある。 急いでいる人もいるけれど、どこか全体が少しゆるい。 家族連れの子供が、ホームの端で電車を見ている。 大きな紙袋を持った女性が、友人らしい人と笑いながら歩いている。 私もその中にいる。 知らない場所へ行くひとりの人として。 そのことが、少しだけ嬉しかった。◇◇◇◇ 乗り換えた電車は、最初の電車よりも空いていた。 窓際の席に座ると、外の景色が少しずつ住宅街へ変わっていく。 高い建物が減り、低い家が増える。 小さな公園。 古い商店。 細い川。 線路沿いの花壇。 私はスマホの地図を開き、目的地の駅まであといくつかを確認した。 工房までは、駅から徒歩十分。 歩ける距離だ。 迷っても、
土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。 まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。 今日は工房へ行く日。 そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。 緊張している。 でも、嫌な緊張ではなかった。 知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。 私は布団から出て、カーテンを開けた。 薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。 花はもう終わりかけていた。 それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。 クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。「おはよう」 小さく言う。 それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。 今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。 プレーンヨーグルト。 ブルーベリー。 少しだけ蜂蜜。 丸いテーブルに置くと、いつもの朝食なのに、今日だけ少し意味が違って見える。 この器が生まれた場所へ行く前の朝。 そう思うと、普通のヨーグルトまで、少し旅支度をしているようだった。◇◇◇◇ 朝食を食べながら、私は今日の予定を頭の中で確認した。 午前中に洗濯を済ませる。 軽く掃除をする。 昼前の電車に乗る。 工房の最寄り駅までは、乗り換えが一回。 駅から徒歩十分。 販売会は午後からでも間に合うけれど、あまり遅くならないうちに行きたい。 緊張すると、段取りばかり考えてしまう。 でも今日は、段取りで自分を縛るためではなく、自分が安心して出かけるために確認している。 その違いを、少し分かるようになっていた。 ヨーグルトを食べ終え、器を洗う。 布巾で拭いて、食器棚に戻す。 今日は使った器を置いて出かける。 帰ってきた時、この器が棚にある。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。